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福岡高等裁判所 昭和57年(う)254号 判決

主文

本件各控訴をいずれも棄却する。

理由

本件各控訴の趣意は、弁護人本多俊之、同河西龍太郎、同田中利美、同名和田茂生、同原田直子、同諫山博が連名で差し出した控訴趣意書、及び弁護人本多俊之、同河西龍太郎が連名で差し出した控訴趣意書に記載されたとおりであり、これらに対する答弁は、検察官疋田慶隆が差し出した答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用し、これらに対し次のとおり判断する。

控訴趣意中軽犯罪法一条三三号前段違憲の論旨について

所論は要するに、原判決は本件びら貼り行為が人権のうちでも最も重要な政治的表現の自由の一態様であることを実質的に無視し、また、右自由の制約が許される場合を明白かつ現在の危険が存するときに限定するなど必要最小限度の規制手段を選択することもなく、単純に合理性の基準に基づく価値比較衡量をなしたうえ、本件について軽犯罪法一条三三号前段を適用しているが、右規定は憲法二一条一項に違反し無効である。従つて、原判決は法令の適用に誤りがあり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄されるべきである、というのである。

そこで検討するに、軽犯罪法一条三三号前段は、主として他人の家屋その他の工作物に関する財産権を、管理権を保護するために、みだりにこれらの物にはり札をする行為を規制の対象としているものと解すべきところ、政治的表現の自由が人権のうちでも特に重要なものであることはいうをまたないところであるが、政治的表現行為であつても、文書、電波、工作物等媒体の利用を要するものは当然に媒体の所有権等を侵す自由をもつものではなく、たとえ政治的思想を外部に発表するための手段であつても、その手段が他人の財産権、管理権を不当に害するごときものは、もとより許されないところであるといわなければならない。また、「明白かつ現在の危険」の基準は、規制の目的が表現そのものを抑制することにある場合に適用されるものであつて、その目的が表現そのものではなく、単に表現の態様を抑制するにすぎない場合には適用されないものと解するを相当とするところ、所有権者ないし管理権者の承諾を得ていない電柱に対するはり札を全面的に禁止したとしても、右承諾を得てなされるはり札はもとより、びら配り、街頭における広報活動等、他の態様による表現活動の余地は残されているのであるから、右法条による規制は表現そのものではなく、単に表現の態様を抑制するにすぎないものであることが明らかである。従つて、右規制の許される場合を「明白かつ現在の危険」が存するときに限定する所論は、前提を欠いて失当である。そうすると、この程度の規制は、公共の福祉のため、表現の自由に対し許された必要かつ合理的な制限であつて、右法条を憲法二一条一項に違反するということはできず(最高裁判所大法廷昭和二五年九月二七日判決、刑集四巻九号一七九九頁、同大法廷昭和三〇年四月六日判決、刑集九巻四号八一九頁、同大法廷昭和四五年六月一七日判決、刑集二四巻六号二八〇頁、同第三小法廷昭和四七年六月六日判決、刑裁判集一八四号四一七頁、同第一小法廷昭和五〇年六月一二日判決、刑裁判集一九六号五八九頁参照)、右と同趣旨の原判決の判断は正当であるから、論旨は理由がない。

控訴趣意中軽犯罪法の解釈適用の誤りの論旨について

所論は要するに、被告人らの原判示所為が軽犯罪法一条三三号にいう「みだりに」に該当するかどうかを判断するにあたつては、被告人らがびら貼りに至つた動機、目的及び言論活動の重要性と、演説会の開催を知らせる小型ポスターを、表通りの二本の電柱に二枚ずつガムテープで貼りつけて生じた私益の侵害度とを、憲法的観点から考慮すべきであるのに、原判決は本件びら貼り行為の価値について全く考慮していない。また、右電柱は軽犯罪法一条三三号前段の「その他の工作物」にあたらないのに、原判決はこれを積極に解している。更に、被告人らの原判示所為が同法一条三三号前段に該当するとしても、本件起訴は日本共産党への弾圧を目的としてなされたものであるから、同法四条に違反し、ひいては、憲法二一条の保障する表現の自由を侵害するものであるのに、原判決はこれを認めていない。従つて、原判決は右法条の解釈適用を誤つたものであり、右誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄されるべきである、というのである。

そこで検討するに、前叙のとおり、軽犯罪法一条三三号前段は、主として他人の家屋その他の工作物に関する財産権、管理権を保護するために、みだりにこれらの物にはり札をする行為を規制の対象としているものであるから、右法条にいう「みだりに」とは、他人の家屋その他の工作物にはり札をするにつき、社会通念上正当な理由があると認められない場合を指称し、かつ、右法条にいう「工作物」とは、土地に定着する人工的建設物をいい、電柱を含むと解するのが相当である(前記最高裁判所大法廷昭和四五年六月一七日判決参照)。このような観点に立つて考え、更には、軽犯罪法が日常生活における最低限度の道徳律に違反する行為を取締りの対象とするものであり、違法性の軽微なものを取りあげてこれに制裁を科し、社会の秩序を維持することを目的としていることにかんがみると、所論のいうようなびら貼りの動機、目的が正当であるかどうか、その貼りようはどのようなものであつたか、また、びら貼りによつて蒙る被害の程度が軽微であるかどうかということによつて、「みだりに」の解釈に関する結論を異にすることは原則としてないものというべきである。また、右の法条を適用するにあたつては、軽犯罪法四条が規定するように、国民の権利を不当に侵害しないように留意し、その本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用することがあつてはならないことはいうまでもないが、本件については、記録並びに当審における事実取調べの結果に徴しても、国民の日常生活における卑近な道徳律を維持しようとする本来の目的を逸脱して、他の目的、すなわち日本共産党の弾圧を目的として公訴提起がなされたことを認めるに足りる証拠はないから、被告人らの各所為が、前記法条にいう「みだりに」他人の工作物にはり札をした場合にあたることは明らかである。

従つて、原判決が被告人らの同判示の各所為に対し軽犯罪法一条三三号前段を適用したのは正当であるから、原判決には所論のような法令の解釈適用の誤りはない。論旨は理由がない。

控訴趣意中佐賀県屋外広告物条例二二条二項一号、五条一項四号違憲の論旨について

所論は要するに、原判決は、本件びら貼り行為が人権のうちでも最も重要な政治的表現の自由の一態様であることを実質的に無視し、右自由の制約が許される場合を明白かつ現在の危険が存するときに限定するなど必要最小限度の規制手段を選択することもなく、単純に合理性の基準に基づく価値比較衡量をなし、更に、右条例が人の主観によつて性質が大いに異なり、意味の不明確な美観風致を保護法益としてびら貼りを規制したり、一定区域内の電柱等に対するびら貼り等を知事の許可にかからしめて表現活動の事前抑制を認め、しかもその違反に対して、罰則を規定するのは正当ではないのに、これらを是認し、本件について佐賀県屋外広告物条例二二条二項一号、五条一項四号を適用しているが、右規定は憲法二一条一項に違反し無効である。従つて、原判決は法令の適用に誤りがあり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄されるべきである、というのである。

そこで検討するに、先ず、「明白かつ現在の危険」の基準は、規制の目的が表現そのものを抑制することにある場合に適用されるものであつて、その目的が表現そのものではなく、単に表現の態様を抑制するにすぎない場合には適用されないものと解するを相当とするところ、一定区域内の電柱に対するびら貼りを規制したとしても、規制外のびら貼りはもとより、びら配り、街頭における広報活動等他の態様による表現活動の余地は残されているのであるから、右法条による規制は表現そのものではなく、単に表現の態様を抑制するにすぎないものであることが明らかである。そうすると、そのような表現行為についてはたとえ人権のうちでも特に尊重されるべき政治的表現行為であつても、公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を加えることが可能であるといわなければならない。

次に、佐賀県屋外広告物条例(昭和三九年佐賀県条例第四三号)は、屋外広告物法(昭和二四年法律第一八九号)に基づいて制定されたもので、右法律と右条例の両者相俟つて、佐賀県内における美観風致を維持し、及び公衆に対する危害を防止するために、展外広告物の表示の場所及び方法並びに屋外広告物を掲出する物件の設置及び維持について必要な規制をしていることは明白である。ところで、所論はこの「美観風致」という概念は、意味の不明確な、人の主観によつて性質が大いに異なるものであるから、これをもつてびら貼りを禁止する保護法益とすることはできないというのである。なるほど、美観という概念は美学的には多義的であり、また、美観を増進するという場合は主観性の入り込む余地があるであろうけれども、同法及び同条例にいう「美観風致の維持」とは、そのような美学的概念でも、また、そのような積極的美の創造を対象とするものでもなく、現在ある人工美及び自然美を維持する、換言すれば、現在ある人工美及び自然美を害する行為を規制するものであるから、社会通念によつて客観的に決しうるものであり、法概念としてその価値を否定されるべきほどに不明瞭なものであるとは決して考えられない。そして、電柱へのびらの貼付はそれが貼りつけられた時点での不調和な様相だけでなく、時日を経過するうち風雨にさらされて荒廃した様相を呈するときは一層見苦しく、地域の美観風致を害すること等を考慮するとき、特に美観風致維持の要請の大きい一定区域内の電柱等に対するびら貼り等を知事の許可にかからしめて、表現活動の事前抑制を認め、その違反に対して五万円以下の罰金刑という比較的軽い刑罰を科したとしても、国民の文化的生活の向上を目途とする憲法の下においては、都市の美観風致を維持することは、公共の福祉を保持する所以であるから、この程度の規制は、公共の福祉のため、表現の自由に対し許された必要かつ合理的な制限と解することができる。従つて、所論の各規定を憲法に違反するものということはできず(最高裁判所大法廷昭和二五年九月二七日判決、刑集四巻九号一七九九頁、同大法廷昭和二九年一一月二四日判決、刑集八巻一一号一八六六頁、同大法廷昭和三〇年三月三〇日判決、刑集九巻三号六三五頁、同大法廷同年四月六日判決、刑集九巻四号八一九頁、同大法廷昭和三二年三月一三日判決、刑集一一巻三号九九七頁、同大法廷昭和三九年一一月一八日判決、刑集一八巻九号五六一頁、同大法廷昭和四三年一二月一八日判決、刑集二二巻一三号一五四九頁、同第一小法廷昭和四五年四月三〇日判決、刑集二四巻四号一九六頁参照)、右と同趣旨に出た原判決の判断は相当であるから、論旨は理由がない。

控訴趣意中佐賀県屋外広告物条例の解釈適用の誤りの論旨について

所論は要するに、そもそも、本件びら貼り行為に右条例二二条二項一号、五条一項四号を適用した原判決は憲法二一条に違反する(適用違憲である)とともに、右条例二三条に違反するものである。このことは、本件起訴が日本共産党の政治活動を弾圧する意図のもとに同党の政治びら貼りのみを差別的に選択してなされたものであることからも明らかである。また、本件びらは講演会のためのもので、その会場のある区域に表示したものであるとともに、日本共産党佐賀県委員会が昭和五五年五月一一日に佐賀市内の神野公園で催す恒例の赤旗祭に行う講演会を知らせるためのものであつて、右祭礼に関して表示したものであるから、同条例六条七、八号の各除外事由に該当するばかりでなく、これについては佐賀県知事が昭和五二年一一月二四日佐賀県告示第六五九号をもつて指定した「メーデー、各地方に旧来から行われている祭、記念祭に関して表示するもの」を類推適用すべきである。しかるに、これを認めなかつた原判決は右法条の解釈適用を誤つたものであり、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄されるべきである、というのである。

しかしながら、先ず、所論にいう適用違憲ないし適用違法とは、法令が当然に適用を予定している場合の一部につきその適用を違憲ないし違法と主張するものであつて、畢竟法令の一部を違憲ないし違法と主張するに等しいものであるから(最高裁判所大法廷昭和四九年一一月六日判決、刑集二八巻九号四〇八頁参照)、法令の違憲ないし違法の主張に含まれるものであるところ、右条例二二条二項一号、五条一項四号が違憲でないことは前叙のとおりであり、また、右条例の右条項が国民の政治活動の自由その他国民の基本的人権を不当に侵害するものでないことも右説示によつて明らかというべきであるから、それが右条例二三条に違反するものでないことも論をまたないところである。そして、佐賀県屋外広告物条例二二条二項一号、五条一項四号を適用するにあたつては、屋外広告物法一五条及び右条例二三条が規定するように、国民の基本的人権を不当に侵害しないように留意しなければならないことはいうまでもないが、本件については、記録並びに当審における事実取調べの結果に徴しても、日本共産党の政治活動を弾圧する意図のもとに同党の政治びらのみを差別的に選択して公訴提起がなされたことを窺うべき事跡は見い出すことができない。

次に、右条例六条七号が講演会等のためのもので、その会場のある区域に表示し、又は設置するものを同条例三条から五条までの適用除外事由と定めたのは、講演会等の会場等の管理者が美観風致のための管理を自律的にすることを期待したことによるものと解せられるから、「その会場のある区域」とは会場管理者の管理権が及ぶ区域と解するのが相当であるところ、関係証拠によれば、本件びらの貼りつけられた原判示(一)の場所は本件びらに表示された日本共産党の演説会場である佐賀市神野公園より約一九〇〇メートル南南東方の地点であつて、右演説会場の管理者の管理権の及ばない区域であることが明らかである。従つて、本件について右条例六条七号の除外事由があると解することはできない。

更に、関係証拠によれば、本件びらは原判示のとおり単に日本共産党演説会の日時、場所を告知し、かつ、渡辺武あるいは平林正勝の氏名及び顔写真を印刷したものにすぎないことが認められるから、客観的にみて所論の赤旗祭に関するものということはできないばかりでなく、右条例六条八号にいう「祭礼」とは、国民的な祭典又は地域住民の祭典をいい、特定の目的のもとに結合した人的集団の祭を含まないと解するのが相当であるから、たとえ本件びらが所論の赤旗祭を催す際に行う講演会を知らせるためのものであつたとしても、それは右「祭礼」に関して表示したものであるということはできない。また、記録並びに当審における事実取調べの結果に徴しても、右赤旗祭が所論の佐賀県告示にいう「メーデー、各地方に旧来から行われている祭、記念祭」に準ずるものということのできないことは明らかであるから、本件びら貼りについて同告示を類推適用すべきであるとの所論も採用するに由ないものである。

原判決には所論のような法令解釈適用の誤りはない。論旨は理由がない。

控訴趣意中理由不備の論旨について

所論は要するに、原判決は、軽犯罪法四条及び右条例二三条の各存在及び趣旨をふまえるならば、被告人らの本件各所為に軽犯罪法一条三三号前段、又は佐賀県屋外広告物条例二二条二項一号、五条一項四号を適用するのは違憲であつて違法である旨の弁護人らの主張について何らの判断も示していないから、原判決には理由不備の違法がある、というのである。

しかしながら、前叙のとおり、所論にいう適用違憲ないし適用違法とは、法令が当然に適用を予定している場合の一部につきその適用を違憲ないし違法と主張するものであつて、畢竟法令の一部を違憲ないし違法と主張するに等しいものであるから、法令の違憲ないし違法の主張に含まれるものであり、また、軽犯罪法一条三三号前段又は右条例二二条二項一号、五条一項四号が憲法二一条に違反するかどうかを判断し、あるいは前者の各法条を適用するにあたつては、当然に軽犯罪法四条又は右条例二三条の規定を考慮しなければならないのであるから、原判決が「(弁護人の主張に対する判断)」の項において、軽犯罪法一条三三号前段及び右条例五条一項四号が憲法二一条に違反しない旨を説示し、被告人らの本件各所為に前者の各法条を適用している以上、当然に所論指摘のような違憲、違法が存在しないことを判示した趣旨であることは、その判文と合わせ考えても極めて明瞭というべきである。

従つて、原判決には何ら所論のような違法はなく、論旨は理由がない。

控訴趣意中可罰的違法性欠如の論旨について

所論は要するに、(一)本件びらが貼られていた地域及びその付近一帯は、他のびらが多く貼られていたし、現に貼られている地域でもあり、特に美観風致の維持がはかられなければならない地域ではないこと、(二)本件びらの貼られた物件は電柱であつて美観の保持が強調されなければならないものではなく、また、本件びら貼りによつて電柱の所有者ないし管理者の所有権ないし管理権が実質的に侵害されたものでもないこと、(三)本件びらの内容は、渡辺武と平林正勝両名の顔写真と日本共産党の演説会の開催日時及び場所を記載したものであり、貼付方法はガムテープで貼つたにすぎず、その他色彩、形状からも醜悪、異常なものではないことなどを考慮すると、被告人らの本件各所為は軽犯罪法一条三三号前段及び佐賀県屋外広告物条例二二条二項一号、五条一項四号における可罰的違法性を欠くものである。しかるに、原判決がこれを認めなかつたのは右各法条の違法性に関する解釈適用を誤つたものであり、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄されるべきである、というに帰する。

そこで按ずるに、たとえ本件びらが貼られていた地域一帯には他のびらが多く貼られていたとしても、それは旧来の悪習として廃絶すべきものであるから、それによつて本件びら貼り行為の違法性を否定すべき事由とすることはできないし、関係証拠に現われるように、本件びらの貼付された場所は住宅の密集した佐賀市街地の主要道路の周辺であるから、同所が特に美観風致の維持がはかられなければならない地域ではないという所論は前提を欠く。また、前叙のように、軽犯罪法及び佐賀県屋外広告物条例は、その罪責及び法定刑からみても刑罰法規のうちでは比較的軽微な法益侵害を予想しているものであり、かつ、電柱へのびらの貼付は、電柱の所有者ないし管理者に全く迷惑を及ぼさないとはいい難く、しかも、それが貼りつけられた時点での不調和な様相だけでなく、時日を経過するうち風雨にさらされて荒廃した様相を呈するときは一層見苦しく、地域の美観風致を害すること等に照らせば、所論(二)、(三)の事由によつて被告人らの本件各所為が軽犯罪法一条三三号前段又は佐賀県屋外広告物条例二二条二項一号、五条一項四号の各犯罪構成要件の類型的に予想する可罰的違法性を具有することを否定することはできない。

従つて、原判決には所論のような法令の解釈適用の誤りはなく、論旨は理由がない。

控訴趣意中公訴権濫用の論旨について

所論は要するに、被告人らに対する本件逮捕及び起訴は日本共産党の政治活動を抑圧する目的をもつてなされたものであるから、本件起訴は公訴権の濫用にあたり、本件公訴は棄却されるべきものである。しかるに、原判決がこれを認めなかつたのは公訴提起の手続に関する法律の解釈適用を誤つたものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決は破棄されるべきである、というのである。

しかしながら、関係証拠によれば、原判決が説示するように、本件捜査が開始されたのは、帰宅途上にあつた警察官が犯行を現認したという偶然の端緒によるものであり、かつ、被告人らは住居、氏名を明かさなかつたことから刑訴法二一七条により現行犯逮捕されたものであるから、本件逮捕が日本共産党の政治活動を抑圧する目的をもつてなされたものとは認めることができない。更に、電柱に対するびら貼り行為は、軽微な事犯の性質上、あるいは捜査機関の人員の関係上、現行犯のみが検挙あるいは起訴されることがあつても理由のないことではなく、そのことから直ちに所論のように本件逮捕及び起訴が他の目的のために濫用されたものであるとするのは速断のそしりを免れない。そもそも検察官の裁量権の逸脱が公訴提起を無効ならしめる場合とは、たとえば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られるものというべきである(最高裁判所第一小法廷昭和五五年一二月一七日決定、刑集三四巻七号六七二頁参照)ところ、本件についてみるのに、被告人両名の本件各犯行そのものの態様は、前叙のように、刑罰法規のうちで比較的軽微な法益侵害を予想している前示軽犯罪法及び佐賀県屋外広告物条例の各犯罪構成要件の類型的に予想する可罰的違法性を具有するものであつて、当然に検察官の本件公訴提起を不当とすることはできない。本件公訴提起の相当性について疑いをさしはさましめるのは、本件びらが貼られていた地域及びその付近一帯になされていた多くのびら貼り行為につき、警察、検察当局による捜査権ないし公訴権の発動の状況に不公平があつたのではないかという点にあるであろう。しかし、少なくとも公訴権の発動については、犯罪の軽重のみならず、犯人の一身上の事情、犯罪の情状及び犯罪後の情況等をも考慮しなければならないことは刑訴法二四八条の規定の示すとおりであつて、起訴又は不起訴処分の当不当は、犯罪事実の外面だけによつては断定することができないのである。このような見地からするとき、審判の対象とされていない他の被疑事件についての公訴権の発動の当否を軽々に論定することは許されないのであり、他の被疑事件についての公訴権の発動の状況との対比などを理由にして本件公訴提起が著しく不当であるとすることはできない(右最高裁判所第一小法廷決定参照)。その他記録並びに当審における事実調べの結果を検討しても、本件の事態が公訴提起の無効を結果するような極限的な場合にあたり、あるいは本件逮捕及び起訴が所論のように日本共産党の政治活動を抑圧する目的をもつてなされたことを窺うべき証跡を発見することはできない。

従つて、原判決には所論のような訴訟手続に関する法令の解釈適用の誤りはない。論旨は理由がない。

そこで、刑訴法三九六条に則り本件各控訴をいずれも棄却することとして、主文のとおり判決する。

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